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1. 私の音楽的生い立ち (ごあいさつに代えて) |
黒人音楽への転機は大学に入って訪れた。ひょんなことから学内のブルース・バンドにピアノ弾きとして参加することになり、じきに歌も歌うことになったのである。 じきに歌を歌うことがおもしろく、頭の中はそれだけで一杯になり、楽器なんて弾いている場合ではなくなった。それまで習っていたクラシック音楽がグルーヴしない平坦な音楽のように色褪せて見えるようになり、ピアノもやめてしまった。今考えてみると、ピアノもギターも続けていればよかったと思うけれど、後の祭。でもあの時に楽器も続けていたら、ここまで歌を歌い込むことにはならなかったのかもしれない。いずれにしても全部、というのは能力的にみても無理な相談だった。 第2の転機はセッション活動を始めることで訪れた。学生時代からずっと「ソウル・バンドの-ボーカル」として歌ってきた私は、それまで“自分のバンドで練習して歌う”やり方しか知らなかった。バンドが解散してそのまま歌をやめそうだった私に、高円寺にあるライブハウスJIROKICHIのマスターが、「JIROKICHIで月1回セッションを組んであげるから、頑張って歌い続けなさい」と言ってくれた。これがその後の音楽活動の軸となった。あの時のジロマスの一言がなければ、私もそこで歌をやめていたと思う。実に危ないところだった。ジロマスには心から感謝している。とはいえ言われた当時は「え〜っ ? 毎月ライヴするの ? ついていけるのかなぁ。」と内心ビビるのみで、こんなことになるとは想像すらしていなかったのだが。 それまでのバンド方式と違い、当日、譜面を配ってその場のリハーサルのみで曲を仕上げていくセッションには、最初は選曲も含め実に苦労して“討ち死に”したことも数知れず。しかし一方で本当に素晴らしい人たちと出会うことで私の歌はどんどん変わっていった。なにしろ、メンバーはいつも私より年上でキャリアもある“プロの偉い人たち”ばかりである。彼らの音楽についていくのはいつも本当に必死だった(今でもそうかも)けれど、自分の力の200%を要求されるような環境のおかげで成長が早かったような気がする。私が影響を受けた方々についてはまた別の機会に譲るとして、この人たちに出会えたことは私の現在の音楽の大きな財産となっている。 最近、ようやく自分の歌について考え始めた。なるべくシンプルに自分の歌に向き合いたいと思うようになり、一昨年、昨年とデュオのセットを2つ立ち上げた。ゆくゆくはアカペラでも存在できる歌を目指すとして、今は少なくとももう1人相棒が必要な段階と考えている。
それと同時に、これからも素晴らしい人たちの素晴らしい音楽にたくさん出会いたい。 |
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