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7. ブルースって何 ? |
近頃、特にタイトルに“ブルース”のついた場面に参加する機会が多くて、そのたびに、ブツブツとと言い訳を繰り返している。自分の歌がbluesであると違和感なく宣言することが今ひとつできないからである。聴いていただいた人の評価とは関係なく、完全に自分自身の中での歌を歌う時の心のあり方の問題なので、わざわざ言う必要もないのかもしれないけれど。そもそも、『ブルースって何』 なんて問うものではないような気もするが、ここで書きたいのは、一般のブルース論ではなく、私の中でのbluesのあり方の話である。
別に、歌をジャンル分けする必要はないというのはよくわかっている。本当は、音楽のジャンルは、例えばCDショップのどのコーナーで目指す音楽を探せば良いのか、という時に必要な事務的な問題で、あんまり音楽的な問題ではない。しかし、人前で歌を歌っている以上、どのようにしたら、私のことを知らない人に私の音楽をなるべく誤差なく紹介するか、ということも大切で、それを求められる場面も多い。
ここで、ちょっと話は外れるが、私の個人的なsoul、bluesという分類は、そもそも、CDショップの棚の分類とは少し違っているということについて触れなければならない。
さて、私が“ブルース”を聴き始めたのは、自分のソウル・バンドがなくなって、ブルース・セッションに参加するようになってからだから、実は、たかだか10年程度である。人にブルースの好みを聞かれたときには、『テキサス・ギター系のヤツ』と説明しているが、これとて、特にこだわっているわけではない。ただ、色々な曲を聴かせてもらった時、『あれっ ! ? これ誰の曲ですか ? 』と私が反応した曲が、百発百中でテキサス・ギターの人だったことがあまりにも続いたので、『なるほど、私はテキサス系ブルースに興味あるみたいね。』と思ってるだけである。フレディ・キング、Tボーン・ウォーカー、ゲイトマウス・ブラウン…。要は、ペキペキ・ペケペケ・コキーンとしてる力強いトーンのギターの音色が好きでそのテの音に敏感に反応する。とはいえ、残念ながら私はギター弾きではないので、テキサス・スタイルのギター音楽という方向から自分のbluesにはなかなかアプローチすることができないでいる。
そんなことを考えつつ、この2〜3ヶ月、折に触れ、色々なものを聴いたり考えたりしてきた結果、最近、ちょっとハマるパターンを見つけた。それは、トラディショナルの曲を扱ったギター音楽、カントリー・ブルースやフォーク・ソングである。まずは、Mance Lipscomb。同じカントリー・ブルースでも、ロバート・ジョンソンになくてマンス・リプスコムにあるものを探すことから、自分の嗜好を見極めようかと思っている。もう1人はOdetta。こちらは女性なので、歌詞に違和感は少ないし、カントリー・ゴスペルに似たような方法でアプローチができそうに思っている。 |
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9. 時代錯誤 |
もう大分時間たってしまったけれど、Funk Brothers @ cotton club(2006.4.15)の話。 チケット発売後すぐに良い席を予約して楽しみにしていたファンク・ブラザーズだったのに、会場中大盛り上がりの中、私はちょっと乗りそこなってしまったのだ。メンバーが発表された時にベースのBob Babbitさんが入っていなかった時点で覚悟はしていたものの、ここまでサウンドが違うとは思ってもいなかったので。とはいえ、“あの映画の後でファンク・ブラザーズという名前を背負って来る”のだから、もう少し昔のモータウン・サウンドにリスペクトがあるのでは、と期待していたのだ。
考えてみるに、私は今でも、“日常的”にMotownの音楽を聴いている。いや、Motownに限らず、聴いている音楽といえば60〜70年代の古い音楽ばかりで、時代からズレていることこのうえなし。でも、自宅で聴いている限り、そんなことを指摘されることもなく、それが私の音楽生活としては“現在の音”であり、それらの音楽は私個人の中では今でも生きている音楽なのだ。 モータウンの曲は多分ビートルズに次いでカバーされる頻度が高い音楽だが(中河 伸俊氏によるモータウン・カバー曲のリストがすごい)、なかなか扱いが難しい。そして、ビートルズと違って、モータウンの音楽を「音楽的価値」から論ずる人は、実はものすごく少ないんじゃないかと思う。モータウン・ミュージックは、音楽としてアレコレ言うより、アメリカの一風俗として、古き良き流行り歌として、またはあの時代を代表する現象の記号として取上げるという扱いが多い。それゆえに、私などは、カバー曲を聴く時にかえってそこに「本当にモータウンの音楽が好きでカバーしている」のか「有名曲で広くコンセンサスが得られやすいから取上げている」のかを嗅ぎ分ける習性がついている。ロック・バンドなどがカバーする場合でも、“すごくモータウン”な場合と“曲だけモータウン”な場合があるように感ずるのである。要は、その音楽に対する愛着の強さとリスペクトの問題だと思っている。
今回のセットは、メンバーも多く、見た目は映画を彷彿とさせて華やかだったし、アレンジの譜面も一般のフェイク・ブックよりはるかにキチンとしている多分本家本元のもので、確かに正統派という印象をもった。しかし、残念ながら音はあの時代のものとは違った。あの映画では、あれだけ手だれのギタリストが2拍4拍の「…チャッ !… チャッ !」という音を一弾入魂という感じで弾いていた姿に『これぞ職人』と感動したものだが、今回のパフォーマーはつまらさそうにジャ…ジャ…と音を刻んでいるだけ。フィナーレに近いメンバー紹介の場面で、ようやくこれまでの演奏はお役ごめんとばかりに嬉々として全く“異質の”ソロを披露していた姿にはがっかりというより失笑。 「…チャッ !… チャッ !」なんていう刻みは、テクニックを見せらせなくてつまらないと思っているんだろうが、シンプルなようでいてあのタッチを出すっていうことこそ60年代のモータウン音楽にとっては貴重なことだと思うんだけど。とはいえ、現役プレーヤーの彼らにとっては、それは観客の共感は得やすいけど所詮は40年も昔の自国の懐メロにすぎなかったのかもしれない。 また、実際に動く姿を見られた、ということには満足しているが、せめて、ジャック・アシュフォード(巨人 ! )、ジョー・ハンター(軽妙 ! )のプレイをもっとフィーチャーする場面を見たかったな。Funk Brothersというのは全員であのサウンドを作り上げる職人“集団”であり、個々のプレイをピック・アップするとバランスが崩れるのかもしれないが、それでも今回、“Funk Brothers”なのは彼らだけだったんだから。 今回の公演でメイン・シンガーとして抜擢されたラリー・ジョンソンという人は、ベテランではあるが、確か元はといえばSTAXの人である。アル・グリーン、シャーリー・シーザー、ソウル・チルドレンなど様々な有名ソウル・シンガーのサポートもこなし、後年のバーケイズにも一時期在籍していたというから、キャリアとしては十分すぎるほど十分。歌もバッチリ歌える人である。サービス精神も旺盛で、一生懸命お客の把握にも努めていた。もちろん、悪くはないのだ。多分、違う機会に見ていれば。しかし、「映画の成功の後、オーディションに受かって2004年にFunkbrothersに参加」、とのことで、本当のところ、モータウン・ミュージックにどれだけ親しんで来た人なんだろうか。映画の中で、普段のキャラクターがすっかり消え失せて子供のような顔で嬉々としてDo You Love Meを歌っていたブーツィー・コリンズのあり方とはかなり違う。今回は、「仕事」としては大きい話だろうけど、南部のソウル・シンガーとして自分のスタイルとキャリアを築いてしまった彼としては難しいところだったかもしれない。彼の歌とステージ・パフォーマンスを見ながら、そんなことを考えてしまった。My Girlだったかのエクステンションで、彼が観客にコーラスを募った『Ain't nobody can stop the music, 'cause the Motown party never stops(…記憶が定かでないが、多分、こんな内容の。)』というリフレインも、モータウンというよりはソウル風だったな。全体的に少し濃すぎるというか(笑)。My Girl自体の歌はまあ良かったけど、次回はサザン・ソウルのセットで改めて確認させて下さい、というところ。
他に女性のサブ・シンガーが2人。うちヴィッキー・アン・ラブランドがソロをとったWhat Becomes Of A Broken Heartedは映画の中で好評だったジョアン・オズボーンとスタイルがそっくりだったので、そういう人選だったか、と深読みしてしまうほど。一生懸命歌う人なのではあるが。 私が見に行ったのは4月15日の2nd ステージ。つまり彼らの日本ツアーの最終ステージだった。それゆえ、“彼らなりの”演奏としてこなれすぎていたのかもしれない。初日の1stステージを見るべきだったかもな。演奏にもうちょっと緊張感があったかもしれない。それとも昨年だったか来日の噂が上がったまま結局は中止になった時に予定されていたメンバーだったらもっと映画に近かったかもしれない、とあれこれ思いを馳せるばかり。 おもしろかったのは、客席の反応で、当然アメリカ人と思われる観客も多かったのだが、その反応はおしなべて日本人よりいたってクール。この手の“催し物”には慣れているという印象。しかし、ほとんど全員がゴソゴソ口を動かしてずっと一緒に歌っている。ここに今回のショーのポジションを見た気がした。 初めて行ったコットン・クラブは、お値段が高めなものの音の感じが良いお店だったし、久々に音楽仲間と一緒に同じものを見に行く、という楽しさもあって、決して不満ばかりというわけではなかったんだけれど、割りきれない気持ちが心の底にしこりのように残っているのである。あれこれ書いてきたが、ショー自体の出来が悪かったわけではない。むしろショーとしては良質だったとは思うし、見に行って良かったとも思う。原因は私の偏屈な性格にあるのは間違いない。 新しい音楽を受けつけないわけではない。現役のミュージシャンがその時代ごとに表現する音楽にももちろん敬意を表している。でも、今回のショーは「私のモータウン」ではなかった。期待していたのに、というところか。自分が“その時代にリアル・タイムで聴いてきた音楽”でもないのに、と自分の心の狭さに、以来、ちょっと自己嫌悪の日々である。 (2006.4.27)
* この日の曲目* |
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