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7. ブルースって何 ? 
 近頃、特にタイトルに“ブルース”のついた場面に参加する機会が多くて、そのたびに、ブツブツとと言い訳を繰り返している。自分の歌がbluesであると違和感なく宣言することが今ひとつできないからである。聴いていただいた人の評価とは関係なく、完全に自分自身の中での歌を歌う時の心のあり方の問題なので、わざわざ言う必要もないのかもしれないけれど。そもそも、『ブルースって何』 なんて問うものではないような気もするが、ここで書きたいのは、一般のブルース論ではなく、私の中でのbluesのあり方の話である。

 別に、歌をジャンル分けする必要はないというのはよくわかっている。本当は、音楽のジャンルは、例えばCDショップのどのコーナーで目指す音楽を探せば良いのか、という時に必要な事務的な問題で、あんまり音楽的な問題ではない。しかし、人前で歌を歌っている以上、どのようにしたら、私のことを知らない人に私の音楽をなるべく誤差なく紹介するか、ということも大切で、それを求められる場面も多い。
 私は一応、人に聞かれた時には、ソウル・シンガーを名乗っている。(ちなみに、私が考えているソウルとは、最近では、ソウル・クラシックス、と呼ばれる時代のものである。さらにR&Bという呼び名・ジャンルもあるが、これまた話がややこしくなるので、ひとまずこれはソウルに含めておく)。それは、『Soul って何だろう ?』、『何で私の歌はsoulにならないんだろう ? 』ということについては、それはもう長いことしこたま考えてきた結果、最近ようやく、自分の歌のsoulである部分に少なくとも確信を持てるようになったからだと思う。素材となる曲も問わずに済むくらいである。たとえ、他の人に『それはソウルじゃない』と言われても全く気にならない。とにかく自分の中で“soul”と考えたものが実現できてさえいれば、問題ない。後は聴いていただく人に選択していただけばよいのであって、私は私のsoulを追いかけて行くだけ。それについてあまり不安はない。
 ところが、ブルースに関しては、まだその確信がないのである。私の歌の中に何があればbluesなのか ? ブルースといっても色んなスタイルの色んな人がいるが、先人のどんな音楽を手がかりに“私のblues”を探したら良いのか ?

 ここで、ちょっと話は外れるが、私の個人的なsoul、bluesという分類は、そもそも、CDショップの棚の分類とは少し違っているということについて触れなければならない。
 例えば、最近、来日した“ブルース・マン”、バディ・ガイ。私はこの人の瞬発的な声の出し方に非常に興味あるので、今年も至近距離で観察できて有意義であった。ところが、いわゆるブルース・ファンには、このバディ・ガイという人の評判はあまりかんばしくない。なるほどな、と思う。曲をストレートにやらないし、ステージ進行に遊びが多く、ストイックな感じがないからだろう。ギターもちょっとロックっぽいといえばロックっぽい。しかし、周囲の不満をよそに、私には拒絶感はなかった。何故なら、私の中では、バディ・ガイという人はそもそもブルース・マンではなくソウル・マンという範疇の人だからである。『いや、若い時の彼のブルースは素晴らしかった。あの頃の彼を見たい。』という声もよく聞く。しかし、ビデオなどで、まだ10代のバディ・ガイを見ても、James Brownの物真似(?)みたいなことやってるし、その時点で既にムチャクチャ“ポップ”な人なんである。本人は多分bluesやらなくちゃ、なんて考えてなくて、ここら辺のスタンスがグラミー賞なんていうものを受賞する所以かな、なんて思う。ソウル畑出身の私としては、彼の確信犯的な芸とか、作り込んだショウアップ法など、楽勝に受け入れられるし、むしろ、『今回はどんなハッタリかますんだろう ? 』というような意識で見物しているところもある(プロレス見るときにちょっと似ているかも)。とにかく、今回バディ・ガイを見て、周囲の人との受け止め方が違うことは、ちょうど、自分にとってのソウルとブルースについて考える1つのきっかけになった。
 さて、“ブルース・コーナー”にCDが並んでいるけれど、実は私の中ではソウル・マン、という人は他にもいる。まずは、大好き( ! ) なジョニ-・ギター・ワトソン。でも、この人の音楽を聴くときも私はどうやらbluesを意識しているわけではないらしい。ジョニ-・ギター・ワトソンのコンサート映像とか見てると、『これこそ、私の理想とするソウル・バンドかも…。』なんて思っているのである。理由はよくわからないけれど。それから、アルバート・コリンズの音楽はR&B。ウィルソン・ピケットを聴いた時と同じ反応が私の中で起こる。エタ・ジェイムスに至っては、『どう考えたって、ソウルじゃん ! 』と思っているのに、最近は、ほとんどブルースの棚に入ってたりする。ということで、これらの人たちの音楽を聴いている時には、実は、私はブルースではなくソウルを聴いているつもりなのだ、ということに今回気がついてしまった。(ただし、特に、バディ・ガイ、ジョニ-・ギター・ワトソン、アルバート・コリンズなどの音楽を“soul”と言ってしまう私は、逆に、いわゆる“ソウル・ファン”からは否定されると思うけど。ここら辺は実に難しい問題だ。)

 さて、私が“ブルース”を聴き始めたのは、自分のソウル・バンドがなくなって、ブルース・セッションに参加するようになってからだから、実は、たかだか10年程度である。人にブルースの好みを聞かれたときには、『テキサス・ギター系のヤツ』と説明しているが、これとて、特にこだわっているわけではない。ただ、色々な曲を聴かせてもらった時、『あれっ ! ?  これ誰の曲ですか ? 』と私が反応した曲が、百発百中でテキサス・ギターの人だったことがあまりにも続いたので、『なるほど、私はテキサス系ブルースに興味あるみたいね。』と思ってるだけである。フレディ・キング、Tボーン・ウォーカー、ゲイトマウス・ブラウン…。要は、ペキペキ・ペケペケ・コキーンとしてる力強いトーンのギターの音色が好きでそのテの音に敏感に反応する。とはいえ、残念ながら私はギター弾きではないので、テキサス・スタイルのギター音楽という方向から自分のbluesにはなかなかアプローチすることができないでいる。
 歌という点からみると、歌詞に躊躇して曲を選ぶのに苦労することが多い。特に、モダン・ブルースの人たちの歌詞は、やはり男性独特の感性の歌詞で、しかもそれらはかなり古い人生観・男女観であることが多い。気持ちの動き方が現在の自分とは全く違っていて、聴くのは好きでも、歌ってみると、残念ながら理解しきれない、と思うことが多い。考えすぎ、と言われることもあるが、時に、“自分にはない気持ち”を歌うというのは、私にとって、『さとう珠緒のモノマネで喋れ』と言われるに等しいぐらいかなり苦痛なことである。とりあえず、現在は、古いジャズ系女性シンガーのブルース曲が内容としても納得しやすいので、歌詞に違和感のない曲を歌っているが、まだまだ私にとってのbluesな気持ちそのものを掴んでいる、とは言い難い。

 そんなことを考えつつ、この2〜3ヶ月、折に触れ、色々なものを聴いたり考えたりしてきた結果、最近、ちょっとハマるパターンを見つけた。それは、トラディショナルの曲を扱ったギター音楽、カントリー・ブルースやフォーク・ソングである。まずは、Mance Lipscomb。同じカントリー・ブルースでも、ロバート・ジョンソンになくてマンス・リプスコムにあるものを探すことから、自分の嗜好を見極めようかと思っている。もう1人はOdetta。こちらは女性なので、歌詞に違和感は少ないし、カントリー・ゴスペルに似たような方法でアプローチができそうに思っている。
 それにしても、好きな音楽とそうでない音楽の差って何だろうか。これが一番のナゾである。理屈では説明できないのに、身体は確実に反応するから。音楽のヒミツは実に深い。というより、自分をもっと良く知ることか。 (2005.7.3)

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8. やっぱり基礎練習は大事 
 最初からきちんと歌を学んでいる人には、何を今さら、っていう話だろうが、私のように野育ちのシンガーとしては、こんなことも考えてたりする。

 先日、風邪ひき状態でライブをした。後日、その日の録音を聴いてみたら、えらくピッチが悪くてショックを受けた。ライブ中は、多少声が伸びないとは思ったものの、そんなに調子悪いという自覚はなかったし、いつも通り楽しくご機嫌な1日だったので、ちょっとびっくり。“びっくり”、とは他人事のようないい草であるが、本人は気づいてなかったんだから、しょうがない。鼻が通らなくて耳が遠かったのかもしれないが、客観的に聴いたと時のギャップに、実際はこんなだったか、はぁ〜、と、がっくり。
 私はライブもリハも、なるべく録音するようにしている。録音機器を用意するのは面倒だし、そもそも自分の歌を聞きなおすのはすごく嫌。特にライブ直後ぐらいだと、その時の気持ちがまた蘇ってくるので落ち着かなくなる。だから、録るのは録るが、精神的にほとぼりが冷めるまで放っておくことが多い。しかし、いずれは聴かねばならないことはよくわかってるのでとにかく録るのである。
 後できちんと客観的に聴いて、自分が声を出してる“感覚”と“現実”のギャップを埋める作業は絶対に必要だと思う。この作業を丹念にしている時期は、“歌っている最中の意図”と“実際に出来たこと”が近いことは経験済み。つまり、人間っていうのは、自分の声を知っているようで知らず、イメージ通りの声を出すためには、“訓練”をしなければならないようにできているのだ。

 私はこれまで正式なヴォイス・トレーニングというものを受けたことがない。歌い始めた頃は、技術より気持ちを表現することの方がずっと大切だと思っていて、そのことばかりに夢中になっていた。しかし、歌に踏み込んで行くにつれ、何らかのトレーニングが必要だということを感じ始めた。やっぱり“テクニック”というものも必要なんである。テクニックがあればあるほど、表現できることの幅も広がる。それまでの勢いや情熱だけではカバーできない範囲に踏み込んできた、ということなのかもしれない。気づくのが遅過ぎるともいえるが、遅くても始めないよりはマシ。

 最近は、自己流であるが、ピアノのあるスタジオの個人練習で音階練習をすることが多い。声の響きを保つため、というのもあるが、もっと大切なのは音階の調整だ。
 人はそれぞれ、感覚の中に持っている音階(スケール)というものがあって、それに従って歌を歌うわけであるが、そのスケールは、思うに、それまでに聴いてきた音楽によって刷り込まれるのではないだろうか。私の場合は3度の音がちょびっと♭しているのが特徴だ。クラシック音楽とかピアノ音楽とか、ピッチが確定している音楽に馴染んできた人は、自分の中に正確なスケールを持っているのだろうが(現に、クラシック音楽でもフレットレスであるバイオリンはまず正しい音階を覚えることから始めるのである)、音程のアヤシイ歌とか、チョーキングを多用するギターとか、ベンドするハープとか、そんなブルーノート音楽ばかりを聴いてるうちに、それが私にとっての“正しい音階”となったんじゃないかと思う 。正しい、正しくない、と言われても、本人にとってはどれを“正しい”と認識するか、という感覚の問題なのであって、実のところ、私は3度の音をジャストで出すと、今でも恥ずかしくていたたまれなくなる感じがある。「そんな、あからさまな音程はどうも…」という感じ。黒人音楽では、ブルーノートが必須だし、実際の歌の中で正確な3度の音を使うかどうかは別にして、基準となるスケールとして正確なピッチの音を出せると出せないのとはやはり違うと思う。そう思って1音ずつピアノの音と比較しながら発声練習するのだが、これは、言ってみれば精神の矯正にも近い。自分の中では正当と思っていた“音階の常識”を変えなければならないのだから。しかし、昔は、アカペラで1曲歌ってみると、約3分後(歌い終わった時)には、キーが半音下がっていたのが、この練習をすることによって、歌い終わってもちゃんとキーが保たれているようになった。歌中でのフレーズは変わらないのに、である。

 単純なピッチのクセだけでなく、辿るフレーズのクセも同様である。大分前の話になるが、テレビのワイドショーで、八代亜紀が、ブルース映画「ライトニング・イン・ア・ボトル」の試写会後にインタビューを受けていた。曰く、『ブルースってかっこいいね〜。』。…よしよし。問題はその後である。『…私もお婆ちゃんになったらブルース歌っちゃったりして。“サカナはあぶったイカでいいぃ〜ぃ〜ぃ〜♪”、なんちゃってね』と見たばかりのブルースのメリスマらしきものをひと節、真似てみせたのだが、これが、驚くほどブルーノート皆無の演歌音階だったのだ。(もちろん、取り囲むレポーター陣は、そろって感心したような溜め息をついていたが、それについてはコメントする気にもならない)。ちなみに、私は演歌歌手の中では八代亜紀は好きな部類に入る人である。彼女ほどの演歌歌手といえば技術に問題はないはずだし、ましてや映画を見た直後に真似してみせるにあたり、八代亜紀にしてこうか、と、もう、びっくり。多分、内に染みついている音階(フレーズ)自体がまったく違うのだろう。
 話がそれたが、つまり、これについても、瞬時に辿るメリスマの中で“あり得ない音”を使ってしまわないように、基礎練習でフレーズのクセを自分の音楽に合わせた方向でゆっくりと調整しなければならない。これまた、普段の基礎練習がすごく大切なんである。何と言っても、肝心のライブ中は必死でそんなこと構ってるわけにはいきませんから。ライブでは音階ではなくそれ以外に気持ちを向けなくちゃならないことが一杯ある。

 ということで、そろそろ私の声も再調整が必要だ。しばらくサボっていた基礎練習に行かなくちゃ。と自戒をこめて。 (2005.12.7)

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9. 時代錯誤  
 もう大分時間たってしまったけれど、Funk Brothers @ cotton club(2006.4.15)の話。
 チケット発売後すぐに良い席を予約して楽しみにしていたファンク・ブラザーズだったのに、会場中大盛り上がりの中、私はちょっと乗りそこなってしまったのだ。メンバーが発表された時にベースのBob Babbitさんが入っていなかった時点で覚悟はしていたものの、ここまでサウンドが違うとは思ってもいなかったので。とはいえ、“あの映画の後でファンク・ブラザーズという名前を背負って来る”のだから、もう少し昔のモータウン・サウンドにリスペクトがあるのでは、と期待していたのだ。

 考えてみるに、私は今でも、“日常的”にMotownの音楽を聴いている。いや、Motownに限らず、聴いている音楽といえば60〜70年代の古い音楽ばかりで、時代からズレていることこのうえなし。でも、自宅で聴いている限り、そんなことを指摘されることもなく、それが私の音楽生活としては“現在の音”であり、それらの音楽は私個人の中では今でも生きている音楽なのだ。
 そんな時代錯誤ゆえに、映画『永遠のモータウン』を見に行った時はしこたま泣いた。亡くなったメンバーたちの名前や映像が挿入されるたびに、『この人たちはもういないんだ』と初めて実感したから。同じく、新しくデジタル処理されたジョニー・ギター・ワトソンのDVDを見た時にも途中からボロボロ涙が出て止まらなかった。映像の中のジョニー・ギター・ワトソンがあまりに生き生きとしており、頭の中で知ってる『彼はもういない』ということが信じられなかったから。(おもしろいことに、映像にノイズが入るビデオなどでは、古い時代のモノ、ということが潜在意識に働くのか、こういうことにはならない。)
 よく考えてみるとこんな反応はたしかに“変”である。この自分の音楽に関する時代錯誤ぶりは、折に触れて世間とのギャップを私につきつけて小さな摩擦を生み、悩みの元となるのだが、今のところ、頭ではわかってるけど そうなのだからしょうがない、としか答えが見つからないでいる。音楽は、私にとってほとんど信仰に似て、“理由を問わずに信じているもの”、と言うしかない。

 モータウンの曲は多分ビートルズに次いでカバーされる頻度が高い音楽だが(中河 伸俊氏によるモータウン・カバー曲のリストがすごい)、なかなか扱いが難しい。そして、ビートルズと違って、モータウンの音楽を「音楽的価値」から論ずる人は、実はものすごく少ないんじゃないかと思う。モータウン・ミュージックは、音楽としてアレコレ言うより、アメリカの一風俗として、古き良き流行り歌として、またはあの時代を代表する現象の記号として取上げるという扱いが多い。それゆえに、私などは、カバー曲を聴く時にかえってそこに「本当にモータウンの音楽が好きでカバーしている」のか「有名曲で広くコンセンサスが得られやすいから取上げている」のかを嗅ぎ分ける習性がついている。ロック・バンドなどがカバーする場合でも、“すごくモータウン”な場合と“曲だけモータウン”な場合があるように感ずるのである。要は、その音楽に対する愛着の強さとリスペクトの問題だと思っている。

 今回のセットは、メンバーも多く、見た目は映画を彷彿とさせて華やかだったし、アレンジの譜面も一般のフェイク・ブックよりはるかにキチンとしている多分本家本元のもので、確かに正統派という印象をもった。しかし、残念ながら音はあの時代のものとは違った。あの映画では、あれだけ手だれのギタリストが2拍4拍の「…チャッ !… チャッ !」という音を一弾入魂という感じで弾いていた姿に『これぞ職人』と感動したものだが、今回のパフォーマーはつまらさそうにジャ…ジャ…と音を刻んでいるだけ。フィナーレに近いメンバー紹介の場面で、ようやくこれまでの演奏はお役ごめんとばかりに嬉々として全く“異質の”ソロを披露していた姿にはがっかりというより失笑。 「…チャッ !… チャッ !」なんていう刻みは、テクニックを見せらせなくてつまらないと思っているんだろうが、シンプルなようでいてあのタッチを出すっていうことこそ60年代のモータウン音楽にとっては貴重なことだと思うんだけど。とはいえ、現役プレーヤーの彼らにとっては、それは観客の共感は得やすいけど所詮は40年も昔の自国の懐メロにすぎなかったのかもしれない。
 映画『永遠のモータウン』の実際の演奏場面で、モータウン・サウンドに特徴的なバスドラの低音と金物の鳴りのバランスがダブル・ドラムス+パーカッションという組み合わせで実現されているのを見た時には、これまであのサウンドに対して抱いていた謎が目からウロコで氷解して感動したものだが、今回のメンバーでは残念ながらそれを体感することを望むすべもなし。
 プレーヤーが変われば音も変わるんだからしょうがない、と言われればそれまでだが、それならば、ファンク・ブラザーズという名前をつけないで欲しかった。単に、「本場アメリカからモータウン・ショーがやって来る」ぐらいのタイトルなら、私だってこんな違和感は抱かなかったはずなのだ。ほとんど全てのメンバーがオリジナルと入れ替わってるバンドを昔の名前で出されても…という感じ。とはいえ、これまで“延べ(笑)”30人以上のメンバーが在籍しているテンプテーションズなど、こういう屋号的な扱いはモータウンの十八番かもしれないけど。それでもファンク・ブラザーズ、という名前は継続して守られてきたわけでもなく、映画によって文字通り光が当たるまでは死んでいた名前なんだから、ほとんど知らない人ばっかりのチームにこの名前を使うのはどんなものなんでしょうか。この名前でこそこんな極東の地での公演が成立したということはわかってはいるんだが。

 また、実際に動く姿を見られた、ということには満足しているが、せめて、ジャック・アシュフォード(巨人 ! )、ジョー・ハンター(軽妙 ! )のプレイをもっとフィーチャーする場面を見たかったな。Funk Brothersというのは全員であのサウンドを作り上げる職人“集団”であり、個々のプレイをピック・アップするとバランスが崩れるのかもしれないが、それでも今回、“Funk Brothers”なのは彼らだけだったんだから。

 今回の公演でメイン・シンガーとして抜擢されたラリー・ジョンソンという人は、ベテランではあるが、確か元はといえばSTAXの人である。アル・グリーン、シャーリー・シーザー、ソウル・チルドレンなど様々な有名ソウル・シンガーのサポートもこなし、後年のバーケイズにも一時期在籍していたというから、キャリアとしては十分すぎるほど十分。歌もバッチリ歌える人である。サービス精神も旺盛で、一生懸命お客の把握にも努めていた。もちろん、悪くはないのだ。多分、違う機会に見ていれば。しかし、「映画の成功の後、オーディションに受かって2004年にFunkbrothersに参加」、とのことで、本当のところ、モータウン・ミュージックにどれだけ親しんで来た人なんだろうか。映画の中で、普段のキャラクターがすっかり消え失せて子供のような顔で嬉々としてDo You Love Meを歌っていたブーツィー・コリンズのあり方とはかなり違う。今回は、「仕事」としては大きい話だろうけど、南部のソウル・シンガーとして自分のスタイルとキャリアを築いてしまった彼としては難しいところだったかもしれない。彼の歌とステージ・パフォーマンスを見ながら、そんなことを考えてしまった。My Girlだったかのエクステンションで、彼が観客にコーラスを募った『Ain't nobody can stop the music, 'cause the Motown party never stops(…記憶が定かでないが、多分、こんな内容の。)』というリフレインも、モータウンというよりはソウル風だったな。全体的に少し濃すぎるというか(笑)。My Girl自体の歌はまあ良かったけど、次回はサザン・ソウルのセットで改めて確認させて下さい、というところ。

 他に女性のサブ・シンガーが2人。うちヴィッキー・アン・ラブランドがソロをとったWhat Becomes Of A Broken Heartedは映画の中で好評だったジョアン・オズボーンとスタイルがそっくりだったので、そういう人選だったか、と深読みしてしまうほど。一生懸命歌う人なのではあるが。
 一方で、もう1人のサブ・シンガーとして起用されたヴァレンシア・ロビンソンは、曲への取り組みがストレートだった。今回のメンバーの中で唯一、「なぞる」のではなく「生きた」音楽を見せてくれたように思う。生き生きとして前向き、色鮮やかな彼女の歌は本当に魅力的で、あの日、これだけでも見に来た甲斐があった、と思った。まだ若そうだし、ひょっとすると彼女自身、あの時代のモータウン・ソングを生で体験していないだけに、カバー曲を歌うという煩悶や葛藤が少なく、却って新鮮に、新曲を歌うようなまっさらな気持ちだったのかもしれない。

 私が見に行ったのは4月15日の2nd ステージ。つまり彼らの日本ツアーの最終ステージだった。それゆえ、“彼らなりの”演奏としてこなれすぎていたのかもしれない。初日の1stステージを見るべきだったかもな。演奏にもうちょっと緊張感があったかもしれない。それとも昨年だったか来日の噂が上がったまま結局は中止になった時に予定されていたメンバーだったらもっと映画に近かったかもしれない、とあれこれ思いを馳せるばかり。

 おもしろかったのは、客席の反応で、当然アメリカ人と思われる観客も多かったのだが、その反応はおしなべて日本人よりいたってクール。この手の“催し物”には慣れているという印象。しかし、ほとんど全員がゴソゴソ口を動かしてずっと一緒に歌っている。ここに今回のショーのポジションを見た気がした。

 初めて行ったコットン・クラブは、お値段が高めなものの音の感じが良いお店だったし、久々に音楽仲間と一緒に同じものを見に行く、という楽しさもあって、決して不満ばかりというわけではなかったんだけれど、割りきれない気持ちが心の底にしこりのように残っているのである。あれこれ書いてきたが、ショー自体の出来が悪かったわけではない。むしろショーとしては良質だったとは思うし、見に行って良かったとも思う。原因は私の偏屈な性格にあるのは間違いない。

 新しい音楽を受けつけないわけではない。現役のミュージシャンがその時代ごとに表現する音楽にももちろん敬意を表している。でも、今回のショーは「私のモータウン」ではなかった。期待していたのに、というところか。自分が“その時代にリアル・タイムで聴いてきた音楽”でもないのに、と自分の心の狭さに、以来、ちょっと自己嫌悪の日々である。 (2006.4.27)

* この日の曲目*
1. Get Ready (L) 
2. Signed, Sealed, Delivered And I’m Yours (L) 
3. Heatwave (V) 
4. I Heard It Through The Grapevine (VA) 
5. You Can’t Hurry Love (VA) 
6. My Girl (L) 
7. What Becomes Of The Broken Hearted (VA) 
8. Ain’t No Mountain High Enough (L&V) 
9. Ain’t Nothing Like A Real Thing (L&V) 
10. What’s Going On (L) 
11. I Know I’m Losing You (L) 
E. Shotgun (L) 
(L=Larry Johnson, V= Valencia Robinson, VA=Vickie Ann Loveland)

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