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11. 盛りあがればいいのか
 なぜこんなひねくれたことを言うかというと、ちょうど自分のライブを録音したものをまとめる作業を久し振りにしたからである。自分のライブはなるべく録音しておくことにしている。聴き返すのはイヤなのだが、録っておかないと、万が一、『よし。ここはヒトツ、自分の音楽を聴いて反省してみよう』、という殊勝な気持ちになった時に手元に資料が何もないことになるから、しかたなく、というか、ほとんど習性的に録音している。
 1〜2年前にEdirolの R-1というWAVEレコーダーを買って以来、ディスクの入れ替えなしにCD音質で約3時間分の録音ができるというのが楽でこれを使っているのだが、1回のライブごとにCDRに焼くなどしてCFディスクからデータを出さないといけない。これが案外面倒で、ついつい、パソコンにまとめて放り込んでおいてディスクをとりあえず空にし次のライブに臨む、というのが続いていた。

 で、たまりにたまった約半年分の録音。パソコンのハードディスクを占有するのも気になってきたので、意を決してCDRに焼くことにした。
 さて、このまま焼いてもいいのだが、どうせなら曲の頭出しのマーカーを付けておきたいので、ここで、厭でも音を聴くことになる。何しろ、量が量だから、全ての曲をじっくり頭から終わりまで聴く、というわけにはいかないのだが、その分、毎回のライブごとの音を次々と聴くことによって、今更ながら思ったのだ。『盛り上がっていない回の演奏の方が質が高い』と。これは初めて思ったことではなく、以前から何となく知っていたことだけれど、あらためてつきつけられた感じ。

 “盛りあがった”ライブというのは、お客様が多くて大騒ぎになった、というぐらいの意味で、特に大騒ぎにはならなくともお客様がじっくりと聴いていて下さるのが感じられたライブと比べて、どちらが良い、というわけではないのだが、少なくとも、盛り上がったライブの方が派手で、お客様にも印象が強いかもしれない。でも、自分の音楽として、ゆっくり客観的に聴いてみると、やはりそういう時の演奏は粗くて、コレデイイノカ(赤面)、という場面が多出。盛りあがるというのと充実するというのは別問題だ。やっぱり勢いだけで“やりっ放し”は厳禁、と深く反省した。

 もともと音楽について綿密に計画するのは苦手なタイプで、いざステージ上で決め事をその通りにできるかどうかに関しては自分のことを全く信用していない。瞬間瞬間の音楽と空気とが私を捕まえて、その日どこへ連れて行ってくれるのか、まさにその時任せ。同じ曲が3分の時もあれば10分近く、ということもある。特にここ数年、歌を歌っている最中はほとんど意識がないことが多いので、曲順程度の基本的組み立ては事前にしておくが、本番は流れに任せてという感じになる。決め事が多いと、妙に生マジメな性格ゆえ、意識の中でそっちを憶えておくことが優先されて歌どころではなくなり、本末転倒なことになりかねないので、それを避けたいのだ。

 特段ウケを狙えるような芸があるわけでもなく、ライブを盛り上げようなんていう気持ちはそもそもないのだが、それでも、お客様が楽しそうだと、こちらも嬉しくなり気持ちが浮き立ってしまう。ここに、ついつい目先の楽しいことに飛びついてしまうという悪癖と、“A級のキチンとして演奏よりもB級でドサクサな演奏が好き”という私の嗜好が合わさると、必然的にトホホなことをしでかすことになるわけだ。
 気持ちが浮き立つこと自体は悪いことではなく、興奮と刺激でいつもと違う歌が引き出されることも多々あるので大いに楽しみたいところだが、音楽的には、息があがって発声やリズムが甘くなる、というリスクが大きい。  そういえば、かなり昔に、私としては珍しく気分の乗らないセットがあり、徹頭徹尾クールに(?)、歌のことだけを考えて終了したライブがあったのだが、その時の録音を聴くと歌の仕上がりがいつになく良くて驚いたことがある。その日1日の演奏が楽しかったわけではないので、実に心中複雑なところである。
 楽しくなければ、というより、少なくとも気持ちが強く動くような瞬間がなければ、わざわざ音楽をする意味もないと思うので、音楽の場に慣れすぎてしまって、全てのことを淡々と余裕でこなせるようになるのは望まない。私にとって音楽は仕事ではないのでなおさらだ。毎回、脳ミソがひっくり返るような新鮮な刺激が欲しいのだ。これは大きなジレンマだ。

 心踊るような時間をもちながら、同時に落ち着いて質の高い音楽ができるというのは実に難しい。尊敬するプロ・ミュージャンには、まさにHOT & COOLという演奏をなさる方もいらっしゃるが、これも長いキャリアとその間のたゆまぬ修行の賜物なんでしょうね。いずれ、その心持ちを伺ってみたいものだ。
 さて、結論は出ていない。私はどこに気持ちを置いたらいいんだろうな。元来、私は音楽に振りまわされやすいタイプではある。もともと、音楽とは“その人そのもの”であることだし、おそらくそれは人格の修行でもあるようで。あとは、頭が吹っ飛んでも振りまわされないだけの確固たる音楽の技術(実力)を身につけるしかないんだろう。 道は長い。壮大な計画だけれど、やるしかないんでしょうね。 (2007.2.17)

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13. モード・チェンジ  
 ここ数日、バタバタと忙しいのがようやく一段落して、久々に音楽を聴いたり気楽な時間を過ごしていたけど、そろそろモード・チェンジ。次のライブの準備をしなくちゃいけない時期に入って、実に気が重い。
 実は、今これを書いてるのも、さっき作業始めたら、新しく取り上げてみたい曲がいくつか頭にあがってきて、それがまた、歌詞の聴き取りからしなくちゃならないことに気づいたので、一気に面倒になってグズグズ先延ばしにしてるだけなんだけど…。普通の人なら、歌いたい曲を思いついたら、早く歌ってみたくて、もっと生き生きと取り組むんじゃないの? ところが、私ときたら、『うーん。女性ソウル物はまだいいが、爺さんが“モゴモゴ・ウニャウニャ”歌う曲は、何を言ってるのか何度聴いてもよくわからんことが多いので、避けたいもんだな。』とか考えてるていたらくだ。

 延ばしに延ばしてきたけど、今週末と来週末のスタジオリハにむけて、いよいよ作業を始めなくちゃ。 ライブに向かう自分なりのコンセプトを絞り込んで具体的にラインアップを決めたり、試してみたいアイデアを練ったり、アレンジを考えたり、そして、何より、「なぜその歌を歌いたいと思ったのか」その理由をつきとめること(笑)。それは無意識の自分の感覚を信じて、それを手がかりに自分という人間を知ることにほかならない。歌と自分を同化させていく作業というか。で、これを始めると、“自分が歌う”ことを前提にしか音楽を聴けなくなるし、そうなると“関係ない”曲を聴くのは苦痛でしかなくなる。耳や気持ちの基準が全く変わってしまうのだ。我ながら本当にやっかいな性格。でも、少なくとも自分に関しては、これによって歌がすごく自由になって、“出るにまかせておいても変なことにならない(爆)ようになる”ことがよくわかっているので、ここは踏ん張りどころだ。

 それにしても、仕事ならほとんど好き嫌いを問うこともなく、あんなにテキパキ(?)人間なのに、音楽となるとこんなに腰が重くなるのはなぜ? 本当に自分が音楽を好きなのか、疑いたくなる瞬間だ。でも、多分それは、私にとって、音楽を「やる」ことが絶対的な前提にないからなんだろうな。

 誰がやるって決めたの? …ハイ、ソレハ私デス。

 今気づいたけど、もしかしたら、自分の“意志”ひとつを頼りに続けてることって、私の人生の中で音楽だけかもしれない。まあ、一度やめてしまったら、次に始めるのには今の比ではなく大きなエネルギーが必要になると思うので(考えるだけでも恐ろしい)、ペースは遅くても、細々とでも、何とか続けるつもりですが。誰に強制されてるわけでもないけど、自分で選択したことだからやる、っていうのは、毎回色んなことを自分に問われてる気がする。

 いかん。かなり内向モードに突入してます。(笑)

 しゃーない。やるか。

 自由っていうのは、つくづく重たいものだ。 (2007.6.7)

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●15. 曲の心と私の心
 昨日のLEODUO用スタジオリハでの出来事。

 ある曲で、歌いながらボロボロ泣けて泣けてどうしようない状態に陥りました(苦笑)
特に悲しい出来事があったわけではありませんから、心配はご無用です。
要は、曲に入り込みすぎて、“その曲の心”に取り憑かれてしまったのです。

 相方のアヤマチさんは、『うへぇぇぇ、、、濃いわぁー (-o-;)。…ついていけへん。。。』 とばかりに諦め顔。(苦笑)
ここらへんが、ブルース出身とソウル出身の違いですかね。あはは。スンマセン。

 とはいえ、私だって、ブルースやジャズを歌う時はこういうことは今のところ全くないです。
ある種のソウル・バラードやゴスペルの曲の時だけ。


 発声練習を兼ねて1人きりでスタジオに入る個人練習の時(ここ1年ばかり完全にサボってるけど (>_<) )には、時々あることですが、他の人と一緒に入るスタジオリハで、というのは珍しい。(@_@)
ま、バンドリハ、っていうのは、他の人との音の打ち合わせすることがメインな作業なわけで、自分の歌のことばかりにかかずり合うっていうわけにはいかないのが普通ですから。もちろん、他の人がいるのに自分で勝手に泣くなんて、恥ずかしくってできやしない、っていう自己規制ってものもあるし。

 ちなみに、以前こういう話をした時に、“曲に入り込みすぎてスタジオで曲を作りながら図らずも泣いてしまうことがある”、というミュージシャン(男性)が他にもいたので、私だけが特に異常、ということではないと思うんだけど。

 
 それにしても、何の加減だったのでしょうか?
この曲を初めて聴いた時の説明のつけようがない衝撃、というか、この曲を何としてでも歌いたいと思ってしまった自分の中に沸き起こった心のざわめき。その本質を知りたいと激しく思ってしまった、妙に思い入れの強い出会い頭の1曲だったことは確かなんだけど。
ようやくこの曲が私の中で熟してきて、単に“気に入った”という以上に、本当の意味で理解できてきたのかな、っていうことなんでしょうか。
とはいえ、今回、何の曲で泣いたかは、私のシンガーとしての重大な企業秘密ですので、内緒です。
ご来場いただける方、本番であれこれご自由に憶測して下さいませ(笑)

 でも、ステージでは泣きませんよ。(笑)。
過去に、親しい友人が亡くなった直後のライブで、私情を切り離せずに泣きながら歌ってしまったことが1度だけありますが、それ以来、二度とこういうことをすまい、と固く決心しています。

 本業ではないとはいえ、まがりなりにも人前で歌わせていただいているからには、自分の経験を元に曲を解釈することは必然としても、ひとりよがりな私情を押し付けるのは御法度。
私にとって、“歌う”ということは、あくまで、自分の感情を客観的に昇華して、その曲のためだけに無心になり、その音楽に命をもたせるために、私が今持ってる感情や声を最善の形で“音楽に使ってもらう”べきものだ、と思っています。
自己表現として私が歌うことが大切なのではなく、その音楽に私の歌を最良の形で選んでもらえることが優先なのです。

 私も若い頃は、与えられた曲のどれもこれも、「一生懸命、“私が”歌ってる」状態でした。
それが30歳半ばを過ぎた頃からか、歌っている最中に自我が消えて無心になれる瞬間というものを何度か体験するうちに、それまでとは違った広がりというか、音楽と一体化する何ともいえない至福感を味わい、それに味をしめて、こんな風に考えるようになりました。
今では、「音楽に自分の身体を使ってもらってる」という感覚の方が強いです。
できたら、聴いていただく方には、面前にいる私という存在を忘れていただきたいぐらい(苦笑)。
音楽だけがそこにあればいい、と思っています。
文章でこう書くと大げさなんですが。

 特に、私の場合、自作の曲を歌うわけではない以上、“その曲の心”というものにどれだけ“自分”を融合させて、自分の言葉として歌うかが鍵。
言ってみれば、私は、音楽のためのイタコみたいなものです(笑)。
そして、イタコとしての能力を高めて、より色んな曲に私というものを受け入れてもらえるようになるためには、自分が持っている“感情の引き出し”を大きく強く広げなければならない。日常生活での人間関係はもとより、小説を読んだり、映画を観たり、美術品を見たり、果ては、風景に圧倒されたり、とかいうことまで含めて、自分の感じること全てが糧。(本当ならば、好きな音楽を聴いて触発されるのが当然ながら一番直接的な感情への刺激となるわけですが、実は、これは私には刺激が強すぎ。感情が巻き込まれすぎて辛い時が多いので、普段はよっぽど余裕がある時以外は、ほとんど音楽聴けない状態。この点ではかなりの片端者です/汗)
 そして、それらを元に、いざステージで無心になっても、“安心して”引き出しを開けられるようにするためには、その曲を歌っている時に自分の中に起りうる感情を最大限に突き詰めたら自分の気持ちがどこまで行けるのか、というのを、リハの時点で自分に問うておくこと、知っておくことが、とても大切なことだと思っているのです。
特に、Soul、っていう音楽は、まさにそういう人間性を扱ってる音楽だと思うから。

自分が本当に信じていること、感じていること、知っていることでなければ“歌”なんて歌えない。
それが私の率直な感覚です。

音楽というものは、私にとって、まさに謎一杯の魔法です。

 
 さて、その肝心の私の持ってる“感情の引き出し”ですが。。。

 まず、私がことさらのめり込み勝ちな(笑)、ディープ系のソウル・バラードというのは、だいたいが苦しい恋愛を扱ったテーマが多いです。歌詞を読んで思い当たることが多く、自分の心の中をほじくり返して、この時どうだったろう、あの時どうだったろう、と昔の体験を思い出すだけでなく、もし今こんな状況に陥ったらどうなるだろう、と妄想を膨らませて、自分の感情を追い込んでいく。その妄想の世界の中だけにせよ、その感情を自分で“実感”することを経て、ようやく、自分の言葉として責任もって歌うことができるようになる。私にとってはその時点でようやく“歌”になるわけですが、時に、蓋をしておきたかったことまでひっぱり出さなくてはならないことも多く、それでかなり苦しい思いをしたりします。
それでも、引き出しの漁り甲斐があるだけ、まだマシね(笑)。

 一方で、「私、今、恋していてすごく楽しいの」っていうタイプの曲。実は、こっちの方が私にとっては難問(笑)。なにしろ、私の場合、悩んでる時にはあれこれ考えるけど、幸せな時は他のことはどうでもよくなって頭の中バラ色なまま、何も考えずにプワプワと過ごしちゃうことが多いから(爆)、感情の引き出しが圧倒的に少ないことを痛感しています。こういう曲は、楽曲の構造自体が楽しくできてることが多いから、それにまぎれて楽しく歌えはするんだけど、本当にその曲の核となる幸福感までに自分が到達してるかどうか。。。。「はちきれそうな幸せ」の気持ちの引き出しの追求っていうのは今後の課題かもしれません。
でも、人生、そんなに幸せなことって、滅多にないですよねえ。。。
妄想するにも元になるネタが少なぎるなあ。(爆)

 

 なーんて、以上、音楽を聴いていただく方には全く関係のない、理屈っぽい大仰なことを勢いにまかせてついクドクドと書いちゃいましたが、とにかく、私にとっては個人的にとても貴重なステップでありました。

とはいえ、ふと我に返り、実際に自分ができてることを振り返って考えるとトホホだったりするんですよねぇ。 こういうことがあったからといってすぐに成果として反映される保証は全くありませんし(爆)。

とにかくライブでは、私の個人的な課題なんかについては一切関係なし。
いつも通り、思いきり、皆さんと幸せな空間を共有できる1日を楽しみたいと思っています。
心をほどいて、一緒に、泣いたり笑ったり、歌ったり騒いだり。
何と言っても、楽しいのが一番だもんね!♪ (2009.11.24)

※ [ この項は、ライブ・レポート 2009.11.29 LEODUO -beforeから一部抜粋、加筆・修正したものです。]

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