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14. 伸ちゃん


日本を代表するブルース・ギタリスト、塩次伸二さん。
10月19日午前0時20分、ライブ遠征先の栃木県佐野市において急性心不全にて急逝。 享年 57歳。

※写真は、今年の9月14日、ウエストロード・ブルースバンド@広島・杜のフェスティバル

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 伸ちゃんが倒れた18日、私はあるライブのゲストとして歌っていた。
 この時点ではこの日のメンバーの誰もまだ何も知るよしもなく、素晴らしく充実した時間を過ごして、帰宅したのは深夜すぎ。帰っていきなりこの訃報に接した。
それからどうやって過ごしたか、あんまりよく覚えていない。
 ちょっとしてから、時間を追うごとに続々と入って来だした問い合わせのメールに対応しながら、連絡が回っていないと思われるところに次々と連絡しているうちに朝になっていた。
 その日のうちにすぐに会いに行くことも頭をよぎったけど、一睡もしていないし食事も喉を通らない。あまりに混乱していて心の準備ができていないその状態では精神的にも体力的にも絶対に耐えられない、と思って無理はしないことにした。いち早く現地へ駆けつけて下さった方たちに感謝しつつ、必要な連絡を仲介しながらも、とにかく信じないように、顔見にいくまでは何も考えないようにして夕方を過ぎた頃、お通夜や本葬の詳細が決まったと連絡があった時、それがまだ同じ1日の中の出来事であることに初めて気付いて驚いた。一週間も過ごしたように感じられた長い日曜日。本当なら、伸ちゃんが1ヶ月ぶりに再び東京に来て、妹尾さんと一緒に中野ブライトブラウンで演奏してるはずだった日。

 伸ちゃんには、1995年の8月から足かけ13年間お世話になった。
自分のソウル・バンドがなくなって、単独で乗り出したブルース〜ジャズ系のセッション・ライブのほとんどを面倒みていただいた。
 最初の頃の歯噛みをしたくなるほど“撃沈”だった数々のライブを越えて、根気良く使い続けていただき、1〜2年経ってようやく音楽でのコミュニケーションの仕方がわかるようになってからは、信じられないほど一気に新しい世界が広がっていった。
 Groove Masterと言われるように、その音楽での空間の動かし方は自在だった。音の出ていない瞬間でも、空間をグルーヴさせることのできる稀有な存在。それは私にとって黒人音楽の第一の鍵であり、これを体験することで、私の歌はそれまでとは全く変わり、果てしない自由へ向けて開放されていった。
 私の音楽の根元は依然としてソウルで、ブルースにはならないことを痛感・葛藤する時も多かったが、そんな単なるジャンルという小さな枠の問題を越えて、古い南部の黒人音楽が共通して持っているものを教えていただいた。素晴らしいプレイヤーの方々にもたくさん引き合わせていただき、ご縁を繋いでいただいた。伸ちゃんの周りに満ち溢れる音楽に触発されて、私は毎回のライブごとに新しい自分を発見した。ついて行くだけで必死という日々だったが、この時期を通じて、私の音楽は急速に育っていった。
 

 ここ数年、セッション活動を減らして自分でデュオのセットを立ち上げ、基本の足場をソウルに戻し、自分の歌を根本から叩きなおす作業に没頭していたのが一段落して、昨年あたりからようやく新しい段階で、また伸ちゃんと音楽を共にできる機会がめぐり始めていた。それは私にとってさらに一歩踏み込んだ新しい刺激だった。
 9月にはいつになく2回もご一緒させていただく機会を得た。
そして、次の12月と1月に予定していただいていた2つのセットでは、いよいよ伸ちゃんにも、本格的に私の大好きなディープ・ソウルやゴスペルの世界へ踏み込んでもらおうと計画し、新しい展開に胸を膨らませてもいた。
 そうやって一歩ずつさらに新しい世界を覗いていくことができたら、と熱望していた矢先。
 10月、私の事情でキャンセルしてもらったライブだけが悔やまれる。何としてもやっておくべきだった。本当に浅はかだった。
 私のそばにあった、大きな音楽が1つ消えてしまった。
 

 20日〜21日に佐野市で行われたお通夜と本葬にはたくさんの人たちが駆けつけた。現在のファンの方たちはもちろん、ウエストロード・ブルースバンドやさらにその前身であったライラック・レインボウの頃からの友人・ファンの方たち、そして、数多くのミュージシャンや音楽関係者の方たち。この他にも行きたくても行けなかった方たちは大勢あっただろう。地理的に、人が集まりやすいとは決していえないこの土地に、日本全国各地からこれだけ多くの人たちが集まり、大きな斎場は様々な関係の人たちが入り混じってぎっしり一杯になった。この人はやっぱり、こんなに色んな人たちに、こんなに愛されていたんだなあ。伸ちゃん自体が、人をわけへだてしない人だった。

お通夜〜本葬で住職が歌われた和讃は、伸ちゃんが面白がってその後嬉々としてネタにしそうな独特の声音・節回しとリズムで、思わず『これも伸ちゃんが仕組んだことなの?』と心の中で問いかけていた。

宿泊したホテルのロビーで目にした毎日新聞、朝日新聞、読売新聞には訃報が載っていた。
あらためて凄い人だったんだな、と思った瞬間に、頭の中で伸ちゃんがあのいたずらっぽい笑顔でまぜっかえすように語りかけてきた。
 『そやからな、そんなこともあろうかと、Everyday I Have The Bluesで新聞ネタ盛り込んどいたったんや!』…チョット得意そうに。
 

 あまりに多くの思い出が音楽に絡んでくる。
そのくらい、音楽を楽しみ、私から見てあまりに音楽的、音楽そのものだった人。
大好きで大切な師であり、“音楽の仲間”として音楽を一緒に作ることの素晴らしさを濃密に体験させてくれた人。

 伸ちゃんの演奏に憧れ、その影響を受けた人は数多く、日本の音楽シーンにおいて、また一人偉大な存在が失われたのだとしみじみ思う。
私などは音楽を共にする機会があった、ということだけでも幸運すぎるぐらいだったと思うべきだろう。
 悲しいのは私だけじゃない。

 それでも、諦めきれない。
 もう一緒に音楽することができないと思うと、無性に寂しい。耐え難く寂しい。

 伸ちゃん自身も、さらに新しく気概に燃えていた時だっただけに、あまりに早すぎた。
 本当に残念だ。

 葬儀の折に、伸ちゃんの盟友であるニューオリンズの山岸潤史さんから寄せられた、
 『先に逝ってしまったたくさんの偉大なブルースマンたちのように…』
という言葉がやけに耳にこびりついて離れない。

 もう会えない、ということは、今でも信じられないのだけれど。

ここのところ忙しかったでしょう。少しゆっくり休んでね。 (2008.10.22)

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